「5月も新規上場予定の企業が1社しかない」──。
異常な事態に市場関係者は驚きを隠せない。2002年度から増加基調にあったIPO(新規株式公開)の企業数は、2006年度の187社をピークに急減。2007年度は9年ぶりに100社を割り込んだ。その傾向は2008年に入っても続き、4月の新規上場はたったの1社。5月予定は4月21日にようやく1社目が現れたものの、ゼロになるのではないかという憶測も飛び交った。
このペースだと2008年度は80社を割り込むかもしれない。そうなれば東京証券取引所マザーズ市場、ナスダック・ジャパン(現大阪証券取引所ヘラクレス)開設が決まり「大公開時代」の幕が明けた1999年以降、最低となる。
2006年1月に起きたライブドアショック後、新興株相場は下落。新興市場の代表的な株価指数である東証マザーズ指数の下落率は80%にもなる。
株価低迷でチャンスを逸した上場予備軍の企業が、相場回復を身を低くして待っている。これが、IPO急減の背景にあると考えがち。しかし、実態は異なる。中小、ベンチャー企業の意識には明らかな変革が起きているのだ。
村上ファンドの騒動が転機に
大阪府東大阪市。日本有数の中小企業密集地だ。高い技術力を持つメーカーが多いこの地でも異変が起きている。
東大阪商工会議所の調査で、地元企業の上場への意欲が急速に後退していることが分かった。調査対象は、全国でトップクラスの製品シェアを持つ東大阪の有力50社。「いずれは上場したい」と考える企業は2001年度は23.9%と約4社に1社だったのが、2007年度は4.2%にまで落ち込んだ。
小粒ながらも優れた技術と成長性を持ち、新興市場での上場にふさわしい実力を備えている企業がなぜ「あえて上場をしない」のか。
平本善憲・常務理事は「技術力のある企業の間で『上場したら外資やファンドに狙われる』とする声が増えた」と語る。そのきっかけとなったのは、2005年から起きた「村上ファンド」による阪神電気鉄道株の買い占め問題だ。大阪の人にとり身近な大企業である阪神電鉄。ファンドに経営を揺さぶられるなど考えもしなかった。
「ましてや小さな町工場などひとたまりもない」
東大阪の経営者からはそんな声が聞こえてくると言う。
そんな企業の1つユタカ。ネジや電子部品に使う微小球体の検査装置で世界的に高いシェアを持つ同社は、社員14人、売上高2億5000万円の町工場ながら上場意欲は強かった。
ユタカの安田憲司社長はこう語る。「上場はもう魅力ないなあ。現場をよう知らん人が株主になったらかなわんし」。これが、未上場を貫く方針に転換した理由だ。
株式を上場すれば当然、株主の意向に耳を傾けることになる。しかし、株主は目先の利益にこだわりがち。少人数で一分野に特化した技術を持つユタカのような企業では、家族的な経営で長期にわたって人材を育成し技術を伝承していく必要がある。そうなると株主との間で意見が対立することが目に見えている。
ユタカが上場しないもう1つの大きな理由は、金融機関からの融資が以前より受けやすくなったことだ。東大阪地区では、ここ数年で京都銀行や南都銀行など近隣の地方銀行が参入し、地元信用金庫と相まって中小企業融資を強化している。上場する力を備えた中小企業なら融資は十分に受けられる。上場してまで資金調達をする必要はなくなっているのだ。
上場をあえてせず、M&A(合併・買収)で大企業の傘下に入り、飛躍を目指すベンチャー企業も現れている。
結婚式場運営のディアーズ・ブレイン(東京都千代田区)は今年度中の上場を目指していた。6月には東証マザーズに上場申請する予定で、監査法人の審査も順調に進み、主幹事証券も決めていた。しかしそこまで進めておきながら4月8日、ディアーズは上場申請することをやめ、カタログ通販大手の
千趣会(ベルメゾン)
の傘下に入る決断をした。
大企業傘下で成長目指す
松葉禎之取締役は「上場しても調達できる資金はたったの2億円程度。これでは上場する意味がない」と打ち明ける。
ディアーズは2001年6月の創業。結婚式のコンサルティング事業からスタートしその後は、ホテルや大規模式場の再生を手がけてきた。現在は北関東や九州などで9カ所の結婚式場を持ち、2008年6月期の売上高は50億円程度、経常利益は2億円を見込んでいる。
M&Aを含めた店舗展開を加速させるために新規上場による資金調達を考えた。しかし、公募価格算定の目安となる同業態首位の株価が急落。この状況では十分な資金調達は難しい。
一方、東証1部に上場している千趣会の力は大きい。豊富な資金力で店舗拡大を進められるばかりか、信用力と知名度も上がった。子会社化を発表した瞬間、金融機関から融資や店舗物件の話が舞い込んできた。
「東証マザーズ上場よりよほど知名度が上がっている」(松葉取締役)
新興市場の上場企業に不祥事が相次いでおり、上場が「かえってイメージ低下につながる」との懸念もある。
上場後のコスト負担も市場への魅力が薄れる原因だ。松葉取締役は「監査室の構築、財務、経理部門の強化などで新たに6人の社員を雇う必要がある。監査手数料なども含めると、年間8000万円のコストは最低かかる」と説明する。未上場のままならこうした経営資源はそのまま事業拡大に充てられるのだ。
上場後のコスト負担は人件費だけではない。内部統制報告制度や株券の電子化など制度対応への費用も中小企業にとっては大きな負担となる。
すべての上場企業に対し、今年4月から始まる事業年度から内部統制報告制度が適用された。金融商品取引法(金商法)で定められた新制度で、財務報告の信頼性を高めるため、内部統制の体制を整え運用をチェックし、毎年内部統制報告書をまとめる必要がある。
金融庁がこの指針を出すのが遅れたことなどから、準備を先行させた企業ほどコストをかけているのが現状だ。
上場後のコスト増を嫌う
また、2009年1月から株券の電子化が予定されている。わざわざ紙の株券をいったん発行してしまうと印刷代や発送費用がかかってしまう。これには1000万円前後のコストがかかるとの試算もある。こうしたことから、上場を先延ばしする動きも出てきている。
一方、未上場のうちにしておくべきこともある。事業継承もその1つ。中小企業の事業継承の支援業務を手がける大和証券ウェルスマネジメント部の藤田満部長は「相続税対策のために、上場を手控える動きが出てくる」と見る。上場すると株価上昇で評価額が上がってしまううえに、今後、相続税増税の流れが予想されるからだ。
上場コストと上場前にすべきこと。これらを考えるとメリットがよほどない限り上場を急ぐ必要はなくなる。
2007年11月〜2008年3月に行われた「株式上場研究会」。上場を検討している企業の実務担当者向けに監査法人トーマツが開催しているこのセミナーには250人が集まった。43回目を数えるこのセミナーは毎回盛況だ。
中小、ベンチャー企業の上場への関心がなくなっているわけではない。上場ブームが終わり、資金調達、人材確保、知名度向上など経営における上場メリットを真剣に考えるようになってきた。新規上場企業の数は減っているが、実力のある企業だけが上場する状況は、むしろ正常だと言える。
野村証券公開引受部の久松靖次長は「市況が悪く上場をためらう企業も多いだろうが、上場数が減っただけに機関投資家、個人投資家の注目も高い」と語る。2月に新規上場したセブン銀行など、注目度が高い企業は初値も高く、その後の値動きも好調だ。
低迷する新興市場を立て直すには、市場再編による運営効率化も不可欠だが、ジャスダック証券取引所と大証ヘラクレスの統合問題は迷走している。これ以上の混乱が続けば、「上場はもはや、必ず目指すべきゴールではない」と悟り始めた企業の意識の変化に取り残されるだけだろう。
ベンチャーキャピタルも上場以外を模索
未上場のベンチャーへ投資して株式公開で得られる上場益を主な収益源にするVC(ベンチャーキャピタル)。しかし、株価低迷でベンチャーの上場メリットには陰りが見える。VCの内部収益率も年々低下。投資先の上場益が少なければ収益率が減るからだ。そこで上場に代わる次の手を探り始めた。
優先株で出資、リスク回避も
その1つは、M&A(合併・買収)で、会社を丸ごと売却する手法だ。実はVCにとってM&Aの方が上場準備にコストをかけずに済み、高い金額で売却しやすい。米国では、既に投資資金の回収手法としては上場よりもM&Aの方が多くなっているほどだ。
本編で紹介したディアーズ・ブレインの事例でも、株主のゴールドマン・サックス証券が、上場まで株を持たずに売却を考えたことから千趣会との資本提携に話が進んだ背景がある。
VCの中には、出資の段階からM&Aを見込んで、普通株ではなく、他の株主に優先して有利な条件がついた優先株など種類株を取得する動きが広がっている。増資の際に持分比率の希薄化を防止するため普通株への転換比率を変える条件をつけたり、買収時に他の普通株主より優先して高い金額を受け取るといった条件をつけたりすることで、投資リスクを軽減する。
日興アントファクトリーの三好稔美オフィサーは「これぐらいしないと資金は集まりにくい。市場環境が良くなるのを待ってはいられない」と言う。
上場に代わるもう一手は、M&Aで弱小ベンチャー同士の経営統合を促して経営基盤を強固にして、大手企業が買収しやすくするという方法だ。
これは特にバイオベンチャーの分野で検討が始まりつつある。例えば自民党がプロジェクトチームを設置して経済産業、厚生労働、文部科学の3省の協力で、再編を支援する組織を官民で設立する案が浮上している。政府が音頭を取るのは、技術が海外に流出することを恐れているためだ。VCにとっても有望な新薬候補や知的財産権を持つベンチャーが資金不足で休眠や清算してしまわないように、再編で乗り切りたいという意向が働いている。
もっともベンチャー再編のためには買い手となる企業が現れなければならない。支援組織の設立も、世論の後押しが必要。模索は始まったばかりだ。